岸田裕子の実家は不動産会社経営。しかし、裏の顔は県内有数の大地主!地主でも規格外だった

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岸田総理の妻、岸田裕子さん。

今回は、ファーストレディー外交で、注目を集める彼女の実家(生家)に焦点を当てて調査していきます。

岸田裕子の実家は『三次開発興業株式会社』の社長。2007年から休業中

岸田裕子さんの実家は、広島県の県北に位置する広島県三次市(県北)にあります。

裕子さんの旧姓は、「和田」さんといいます。

そして、父親の和田邦二郎(くにじろう)さんは、不動産会社『三次開発興業株式会社』を経営する会社社長でした。

『三次開発興業株式会社』

設立年月日:1969年4月

住所:広島県三次市十日市中2-12-41

資本金:1200万円

業種:不動産業(ビル・戸建て・マンション賃貸)

2007年以前から現在まで休業中

『三次開発興業株式会社』は、邦二郎さんが40歳の頃に設立した会社になります。

同じ場所で、「和田店」の名前で昔から親しまれた雑貨店を営んでいた様です。

この情報だけ見ると、岸田裕子さんは「中小企業の社長の娘で社長令嬢なんだー」。

「よくあるパターンだな」と感じるかもしれません。

しかし岸田裕子さんの実家の和田家を調査した結果が凄かったんです!!

岸田裕子の実家は、地元で有名な資産家で桁違いの大地主だった!

裕子さんの実家の和田家は、地元の資産家で、造酒業や銀行業を営んでいた旧家という話はよく聞きます。

出典元:wikipedia

写真は、旧三次銀行本店でその前身が『和田家』を中心に経営されていた和田銀行でした。

『和田家』について調べると、代々この地に根ざした大地主の家柄だということがわかりました。

パワー!全盛期の大地主の所有地は『東京ディズニーランド』2つ分

三次市のふるさと情報によると、

『和田家』は、大正時代の終わりころには県北15ヵ町村に田畑合わせて105町歩を持ち、小作人816人を抱えていたといいます。

ズバリ、105町歩の広さとは?

1町歩=3,000坪

105町歩=315,000坪

1町歩=1ヘクタール(100m×100mの広さ)

*数値に関しては、簡略化して表記:1町歩の実寸は、3025坪になります。

315,000坪といっても現実離れした数字でわかりにくいですよね。

イメージしやすい場所と比較すると

・東京ディズニーランドの広さが約15万坪なので=2個分

・東京ドームの広さが1万5千坪なので=21個分

・サッカーコート1面2160坪なので=145面

といった感じになります。

地主さんって、みんなこのぐらいの土地を持っていたのでしょうか?

答えは、NO!!です。

『和田家』は、広島県内全体で10本の指にはランクインする大地主だった様です。

あり余る土地を寄付!?通称『和田グランド』市民の憩いの場

現在、十日市小学校の校舎が建っている場所には、『和田グランド』という大きなグランドがありました。

市民の大きな大会や様々な訓練はすべてこの『和田グランド』で行われており、市民の憩いの場となっていました。

グランド名に『和田』がついているのは、もちろん和田家が、土地を寄付したからです。

十日市小学校は、岸田裕子さんの母校でもあるので、誇らしい気持ちで小学校に通っていたことでしょう。笑

『和田グランド』の100倍を超える土地を全盛期は、所有していたということですから桁違いの大地主ですね。

もちろん、現在は戦後の地主解体の影響を受けているはずなので、この規模ではないと思われますが。

岸田裕子の家族構成。3人兄弟の真ん中

岸田裕子さんの家族構成は父・母・兄・弟の5人家族です。

裕子さんは、田舎の大ファミリー家族の様なので、祖父母も含めたら7人以上と予想できます。

岸田裕子の父:和田邦二郎(くにじろう)

『三次開発工業株式会社』を経営していました。

2023年11月11日に94歳の長寿で他界されました。

出典元:日本経済新聞

葬儀には、岸田文雄総理も参列しました。

岸田裕子の母

裕子さんは、バイデン大統領訪問時にお茶を振る舞いましたよね。

出典元:NHK

裕子さんの母親が、お茶を裏千家で習っており、裕子さんにもお茶を習わせたそうですよ。

昭和の時代には、『花嫁修行』として生け花とかお茶が評価されていましたが、バイデン大統領にお茶を立てる日がくるとは、裕子さんの母親もビックリでしょう。

岸田裕子の兄弟エピソード

岸田裕子さんには、兄と弟がおり「小さい頃から男には負けないぞ」という闘志を持っていたそうです。

男ばかりの兄弟だったので、負けん気の強い性格に育ったと言います。

勝負事には燃えるタイプで、中学受験・大学受験・夫の選挙区、広島での政治活動にこの闘志が遺憾なく発揮されたのではないでしょうか。

兄:和田成一郎(せいいちろう)さん

弟:不明

岸田裕子のお嬢様で優等生な生い立ち。かわいい子には旅をさせよ

裕子さんの小学校時代から大学時代までの生い立ちを順に見ていきます。

小学校時代「大人しく、勉強がよくできる」典型的な優等生

小学校は、公立の広島県三次市十日市小学校に通います。

出典元:まいぷれ三次

例の『和田グランド』の跡地に建てられた小学校ですね。

小学校時代の同級生で、三次商工会議所の佐藤明寛さんによると小学校時代の裕子さんは、「おとなし目で、勉強はよくできた」と印象を語っています。

裕子さんは、中学受験をしていたので、勉強はクラスでもトップレベルでしょう。

児童会役員などもやっていた様なので、積極的な一面も見受けられます。

[6年間の寮生活]:広島女学院中学・高等学校時代

この学校は、広島市内にあるキリスト教系のミッションスクールで、中高一貫校です。

地元では「お嬢様学校」として有名です。

広島大学・医学部に3名の合格者を出すなど、現在でも難関女子校である事がわかります。

出典元:広島女学院中学高等学校HP

裕子さんは、ここで6年間の寮生活を送ることになります。

実家、三次市から広島市までは電車で2時間もの距離なので、通学は不可能ですからね。

お嬢様育ちですが、『可愛い子には旅をさせろ』の親心なのかもしれません。

寮生活を一緒に過ごした同級生によると、「他人に世話をやく面倒みの良いタイプ」だった様です。

ちなみに部活動は水泳部に在籍していたそうです。

東京女子大学:文理学部

高校卒業後は、東京女子大学の文理学部に進学。

出典元:東京女子大学HP

近年では、女子大離れが進み東京女子大の偏差値も凋落していますが、当時は津田塾・日本女子大学と合わせて「三大女子大」ともてはやされていました。

同世代女子のエリート中のエリート。マツダで役員秘書のOL時代

裕子さんは、大学卒業後の1987年4月に自動車会社のマツダに入社します。

出典元:mazdaHP

マツダでは、当時副社長だった和田よしひろさんらの役員秘書を務めました。

英語が堪能だったこともあり、重役秘書に抜擢されたようです。

岸田総理との結婚は『お見合い』

1988年、岸田総理31歳・裕子さん24歳の時に結婚します。

裕子さんは、結婚と同時に、マツダを退社しています。

一説には、見合い結婚ではなく岸田総理の一目惚れだと週刊誌で報道されていました。

馴れ初めは、岸田総理の一目惚れ説を岸田裕子が完全否定

当時31歳だった岸田総理は、父で衆議院議員の文武氏の秘書として企業回りを担っていました。

その訪問先の一つがマツダで、役員秘書をしていた裕子さんに一目惚れしたという話です。

その報道について、裕子さんは「いえいえ普通のお見合いです」と完全否定し、真相を教えてくれました。

一目惚れどころか、顔写真すら見たことがなかった!!決めては2つ

・両家の祖母同士が学生時代の友人で、岸田家の家族の人柄についてよく知っていた

祖母同士が友人だったこともあり、お見合いに発展します。

自己紹介書だけあって写真はなかったそうで、世話人のおばさんが「写真は無いけど俳優の上原健に似てる」という話だけで顔合わせに臨んだのだとか。

出典元:昭和ガイド

・岸田総理の第一印象が、爽やかな笑顔で好感をもった

岸田総理との初対面。

裕子さんは、「(この人と)結婚するんだろうな」と思いました。とお見合いでの初対面を振り返っています。

出典元:instagram

確かに若かりし頃の岸田総理は、かなりのイケメンですね。

結婚後、岸田文雄さんが総理大臣に就任するまでの30年間、広島と東京で離れての生活でした。

岸田首相の東京議員宿舎での単身赴任生活は総理就任前にメデイアで取り沙汰されましたよね。

出典元:instagram

単身赴任生活ですが、「電話は毎日かけてきてくれます」と語る裕子さん、夫婦関係は良好のようです。

ファーストレディーにまでなった裕子さん。

初対面での「(この人と)結婚するんだろうな」と思った。という直感力に脱帽です。

今後、詳しいことがわかり次第追記してまいります。

ありがとうございました。

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